| 当店のご近所 当店から50mの距離に「山本五十六記念館」があり、100mほど離れた所には「山本記念公園」があります。 このページでは「山本五十六」に関わる二ヶ所をご紹介いたします。 戊辰の役で活躍した長岡藩家老・河井継之助の屋敷後が公園として整備されました。 |
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山本五十六の生家・高野家が長岡市に寄付した土地を整備、胸像と生家があります。
長岡藩は戊辰戦争のとき幕軍側で、生家の高野家は旧幕臣の例に漏れず貧しかった。日露戦争の3年前の明治34年、海軍兵学校に2番で合格、在学中に山本家を継承した。山本家は長岡藩家老山本帯刀の家系で、戊辰戦争の折り河合継之助について官軍と戦ったので朝敵とされ、山本家は廃絶された。明治17年、その罪は赦免となったが後嗣がなくそのままになっていた。郷里の名門の絶家を惜しんだ人々が五十六を見込んで養子に懇請したのである。
| 山本記念公園 | 所在地:長岡市坂之上3丁目 |
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| 入口より撮影 | 入口の説明板 |
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| 胸像周辺 | 胸像 山本五十六 (1884〜1943) |
生家 昭和20年8月1日の戦災で消失したので復元したもの。 |
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長岡市出身の偉人の一人に、太平洋戦争で日本連合艦隊司令長官として 海軍を指揮した山本五十六があげられます。 山本五十六は、明治17年4月4日に、長岡藩士高野貞吉の六男として 生まれ、父貞吉が56歳であったことから五十六と名付けられました。 真珠湾攻撃より数々の作戦を指揮しましたが、海軍次官時代は日独伊三 国同盟に反対し、太平洋戦争も回避を主張するなど、平和を望みました。 昭和18年4月18日、南太平洋で戦死し、59歳の生涯をとじました。 長岡出身である山本五十六を偲んで、生家跡が山本記念公園として今も 残されています。 |
| 地域 |
山本記念公園 長岡市坂之上町 NTT長岡支店向かい |
| 交通 |
JR長岡駅からバスで5分 JR長岡駅から徒歩10分 |
| その他 |
山本記念公園の中心に設置された胸像は、面影を今に伝えています。 また、長岡市の中心街にあるこの公園は、憩いの場として市民に親し まれています。 |
(資料提供 長岡市広報課)
山本五十六記念館
県内外から年間約2万人の方々が来館されているそうです。
| 山本五十六記念館 |
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| 平成11年4月18日に開館した。18日は長官の命日である。 遺族や友人が保管していた直筆の書画、日記、トランプ、 聖書や、長官の写真や絵などが展示されている。 また、撃墜された時の搭乗機の翼の一部と 長官が座っていたとされる座席がある。 |
| 開館時間 | 10:00〜17:00 |
| 入館料 | 大人(高校生以上)500円、小・中学生200円、団体割引20人以上 |
| 休館日 | 12月28日〜翌年1月4日(展示替えのため臨時休館あり) |
| 交通案内 | 徒歩/長岡駅西口から10分 |
| 所在地 | 長岡市呉服町1‐4‐1 |
| 問い合せ先 | 山本五十六記念館 TEL0258‐37‐8001 |
| 駐車場 | 普通車6台 大型バス1台 臨時駐車場も有るそうです |
河井継之助 屋敷跡
| 司馬遼太郎の「峠」で知られる、長岡藩家老・河井継之助の屋敷跡が当店の近くにあります。 そこに住む羽賀家の庭の一角が開放されて河井継之助を紹介しています。 継之助が決断した戊辰戦争と山本五十六の指揮した真珠湾攻撃。二つの戦争で長岡の町は二度の焼け野原となりましたが、その度に復興し現在に至っています。そして、二人とも市民から長岡を代表する人物として慕われております。 |
| 河井継之助(かわい・つぎのすけ)の人となり 長岡藩士の河井継之助は、文政十年(1827)一月に生まれています。継之助はこの地を中心にして、友と交わり、学問にはげみ、自らを強く賢くしました。 郡奉行、町奉行、家老など、長岡藩政をまかされる地位に登用されたのは、継之助の努力のたまものだといわれています。 それまでの長岡藩財政は、ゆとりのない状態が続いていましたが、継之助が改革を進めた結果、立て直しに成功しました。それは第一に民政を安定させ、経済を活発にさせたからでしょう。 戊辰戦争では、西軍と戦うことを決断しています。長岡城奪還戦の際の負傷がもとで、慶応四年(1868)八月、会津塩沢で没しました。その生涯は、正義を重んじた政治力、ものを生み出す理財の才、際立った軍事作戦の妙など、北越の蒼龍と称されるほどの英傑だったといえましょう。 |